世界経済共同体党

リオオリンピック・パラリンピック後記二点
 
   今年の夏(南半球は逆)はリオオリンピック・パラリンピックが熱戦を繰り広げた。世界の目を集め、スポーツの持つ良さをいかんなく発揮した。しかし、後記として二つの問題を取り上げたい。一つ目にユニフォーム問題、二つ目にドーピング問題である。

 先ず、ユニホーム問題であるが、局部と胸を隠せば、後は問題ないというところまできている。記録を求め勝つためである。しかし、スポーツは記録のため勝つためだけにあるのではない。スポーツマンシップ(精神)という言葉がある。すなわち、スポーツは人生・人間・心・精神を育て・はぐくむ場でもある。そうであるならば、スポーツはユニホーム問題をもっと真剣に考える必要がある。露骨なユニホームで肌をあらわにし体の線を見せることはよくない。それは本来隠すところであるからだ。隠すべきところを隠さないということは社会通念に反する。それは反社会・反人類行為である。逆のことを考えてみよう。露骨の逆の余裕のあるふくよかなユニホームを着用してみたとしよう。見る観衆は勝負の厳しさに感動・心酔・興奮しつつ、人生・人間としてのスポーツの雰囲気があることに気づき心を満たされるであろう。この全体としてのスポーツ観を忘れてはならない。

 細かいことを言うと、局部と胸を隠すのはもちろんヘソと脇も恥部として隠すべきである。更には背中も隠すべきである。そして、体に密着するタイツ的ユニホームは遠慮すべきで余裕のあるふくよかな感じにすべきである。タイツを使用する場合は述べているユニフォームの下で見えるか見えない程度の範囲で使用すべきである。陸上競技のユニホームパンツは短かすぎる。足にからまなければいいという判断でできるだけヒザに近いところに下部を置くべきである。以上、基本的なことから細部まで述べたことから、全競技のユニホームをどうするべきか考えるべきである。水中競技その他に特例となることもあろう。また、当然のことだが、記録・勝負の公平化を期するために世界各国が同一基準としなければいけない。尚、一般生活の服装にも問題があることは言うまでもない。唯一神又吉イエスがそれを放っておく訳がない。

 二つ目にドーピング問題である。人間には威厳・高潔性が必要である。それはスポーツにとっても同様である。それは何をやってもいいということには断じてならない。スポーツでのドーピングは、この人間とスポーツの威厳・高潔性を否定するものであり、反社会・反人類行為である。

 ところが、リオオリンピック・パラリンピックでロシアの国ぐるみのドーピング問題が提起された。この問題について述べたい。世界反ドーピング機関(WADA)は、2011年から2015年までの5年間にわたり、ロシアで国ぐるみのドーピングがあったとして国際オリンピック委員会(IOC)と国際パラリンピック委員会(IPC)にロシアのリオ五輪への参加除外を勧告した。その勧告に基づいて国際パラリンピック委員会(IPC)はロシアのパラりンピックへの参加拒否を決定した。その決断理由を「公平性や高潔性を失ったらパラリンピックの存在意義がなくなる。」としている。全く正当である。これに対して、ロシアパラリンピック委員会はスポーツ仲裁裁判所(CAS)へ提訴したが却下された。その結果、最終的にロシアのパラリンピック参加除外が確定した。

 ところが、この問題について国際オリンピック委員会(IOC)はロシアのオリンピック参加拒否をしなかった。その決断理由は、オリンピック精神に基づく「オリンピックは個人参加である。」ということである。具体的にはロシアの国主導のドーピングに参加しなかった選手のオリンピック参加を拒否すべきではないということである。しかし、この国際オリンピック委員会(IOC)の決断は理論・論理の逸脱である。ロシアが自らの国ぐるみ・国主導のドーピングをしていたならば、ロシアという国自体が責任をとることが当然であるからだ。すなわち、リオ五輪のドーピング問題は個人をこえたところの国がドーピングを行ったらどうするかの問題である。よって、国際オリンピック委員会(IOC)が世界反ドーピング機関(WADA)の勧告に基づきロシアのオリンピック参加拒否をしなかったのは大問題・大責任問題である。今からでも遅くはない、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長ら責任者は辞職すべきである。尚、国際オリンピック委員会(IOC)は自らの強権のゆえにスポーツ仲裁裁判所(CAS)の存在も無視した結果になっている。



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